すきなものをあつめてたいせつにするせいかつ

絵をかいたり日記を書いたりするひとの、あられもない姿です。

居場所

自分がどこにいるのか分からなくなるときがある。こう、たまに聞く感覚的な、概念的な話ではなく、物理的に。自分がいま何県にいるのか、分からなくなる。この感覚が特にひどかったのは、一年以上前。前職でストレスを抱えていた(と自分が強く感じていた)頃だ。

 

大学時代までは、自分が望んだ場所にいた。地元で仲の良い友人や家族と楽しく生きて、そして自分の意志で県外の大学に進学することを決めた。元々行きたかった大学よりもランクを上げて、頑張って勉強して。しかしそこは全く知らない土地。知らない人たち。新しいコミュニティを形成し、新しい生活を作り上げていかなければならない。

これは非常な苦痛だった。同級生や上級生との関係づくり、サークル参加……

高校までと違い、自分の意志で所属する集団を選び、付き合う人間を選ぶ経験。

地元を離れて初めての一人暮らし。拠り所となる場所や人もない。そして何の制約もない中での人間関係づくり。大海原に投げ出され、自分の生活を営める島を求めて漂流しているような、そんな心細さがあった。当然ながら、ホームシックをこじらせた。

 

どうしようもないスタートを切ってしまったわりに夏には学科の研究室に入り浸るようになっていた。研究熱心なわけではなく、同級生や先輩と駄弁るため。先輩や先生ともあだ名で呼びあうような関係になっていた。

そして自分が先輩になるころには、その暖かな雰囲気、悪く言えばぬるま湯のような雰囲気を作る側に回った。

こうして、漂流していた私の島探しはいつのまにか終わっていた。

 

現在も、大学時代のあの場所は、私にとって大切な居場所だ。ぬるま湯だったという自覚はあるが、私はそれを心地よく思う。社会に出てから、寒風に吹かれ荒波に揉まれる中で、いつもあの場所の温かさを思い出していた。

しかし、そこはもう過去の場所だ。感覚的にも、現実的にも。あの場所にいた人たちはもうあの場所にはいない。各々自分の場所を見つけているはずだ。私も新しい居場所を見つけなければいけないのだ。いけなかったのだ。

 

大学卒業後、私は地元の県に本社を構える企業に就職した。もちろん、地元に帰って暮らすつもりだった。大学生活が始まるまで自分の居場所だった土地に帰ることしか考えていなかった。居心地のいいあの場所が「戻れない居場所」になってしまったのだから、「戻れる居場所」に戻ろう。

 

三月の終わり、卒業式のその日に告げられた配属先は、行ったこともない四国だった。

 

今度ばかりは、これっぽっちも望んでもいないのに。自分の意志が微塵も反映されていない引っ越し。納得はいかなかったが、新卒の私がせっかく内定をくれた会社に歯向かうことはできなかった。

 

そこでの生活は、つらかった。

仕事もつらかった。そのうえ環境もつらかった。

どこに何があるかも全く分からない、知り合いが全くいない土地。地名の読み方すらよくわからない。

個人的に、「同僚」は「友人」になりえないと思っている。

学生時代は多少なりとも自分の意志で付き合う人を選ぶ。しかし社会人になると、気が合う合わない、おしゃべりが楽しい楽しくない、そういうところはあまり見ない。見れない、見る余裕がない、と言った方が正しいかもしれない。私が心にバリアを張ってしまっていただけな気もするが、職場で出会う人とはどうしても友達にはなれなかった。誰とも、真に繋がることはできなかった。

 

そのあたりから、私は自分の物理的な居場所も見失い始めた。

 

自分の部屋で、ふと真っ白な壁を見ながら、近所のスーパーに行こう、と考える。

そのスーパーは地元にあるもので、今いる場所の近所にないということに気づくまで、数秒。

窓の外を見て、やっと自分がどこにいるか思い出す。

そんなことを繰り返していた。

 

たまに地元に帰省して、「四国に戻りたくない」と駄々をこねる。

よく関わっていた面倒見の良い上司に「地元に帰りたい」と電話で泣きつく。

 

私がそんな状態だったのは、自分の体が宙に浮いたような、それこそ大海原に再び投げ出され、いつか帰るとわかっている居場所があるのに、そこに帰る手段を持たずに漂流している、そういう虚しさと不安とを抱えていたからだ。

 

その不安に耐えられなくなった私は、社会人生活二年目にして、退職した。

 

地元に帰ってきた初日の安心感、実家でご飯を食べているときの幸福感を、よく覚えている。

それまでは、実家にいるということは時が来たら自分の仮の居場所へと帰らなければならないということだった。自分の仮の居場所。それは大学生活を送った他県であったり、会社に配属された四国であったりした。私にとっては、どこも全て「仮の居場所」だった。

手に職のない不安定な状態でも、私は「本当の居場所」にいられるだけで幸せだった。

 

そして現在は、派遣社員ではあるが仕事も見つけ、付き合っている人と同棲している。

「ああ、この家こそが私の大切な居場所だ」

と、心から思う。

 

居場所を見つけてから、前職の「同僚」と「友人」になった。あの頃は「同僚」でしかなかったが、今ではきちんと「友人」に分類されている。仕事を辞めて距離が離れても連絡を取り、時には何かのついでに食事をし、恋人の惚気を聞かせ合う。たまには仕事の愚痴も聞く。きっと「同僚」フォルダが無くなってしまったためにはみ出した彼女は、「かつての同僚」フォルダよりも「友人」フォルダの方にしっくりきたのだろう。

 

実家は居場所だ。今住んでいるこの家も、居場所だ。

少しずつ人間関係を変えながら、自分にとっての居場所を作り上げ、また増やしていく。

それも、生きていくうえで重要なことなのかもしれない、と思う。

お休みの日

いつのまにか、きえてしまうんじゃないか。

目の前に、手の中にある現実に対してすらそう思ってしまうようになったのは、以前お付き合いをしていた男性が突然別れを切り出してきたことがきっかけかもしれない。付き合って三か月も経たない頃に、急に、何の前触れもなく、本当に突然。私にとって、人との能動的な別れというものは初めてだった。

相手の仕事が忙しくなっているのは知っていた。しかしそれが別れの理由になるとはつゆほども思っていなかった。

 

余裕のある時に会えたらいいじゃない。

気が向いたときに連絡を取ればいいじゃない。

 

人間関係とはそういうものだと、私は思っている。家族、友人、恋人、あらゆる人間関係において、関係を続けることは義務ではない。ただ、会いたいと思うから会うし、元気にしているか気になるから連絡をしてみる。恋人だからと言って定期的に会わなければいけないとか、こまめに連絡を取らなければいけないとか、予定を合わせてデートをしなければいけないとか、そういうものではない。

関係の継続が義務になってしまったとき、それは面倒な「タスク」になってしまう。仕事でもないのにタスクを抱えるなんてばかみたいだ。

 

しかし、例の彼にとっては恋愛それ自体がそもそもタスクとして存在していたようだった。仕事もしなければいけない。彼女の相手もしなければいけない。そのうえ彼は実家暮らしだったため、家の手伝いもしなければいけない。そして忙しくなったので、優先順位の低いタスクを減らす。そういう感覚で別れを切り出してきたのだろう、と思う。あくまで私の眼にはそう映っていた、というだけで彼の本心を知ることはできないが、確かに私は「彼にとって自分自身がタスクとして存在している」と感じていた。

 

正直、私は彼への執着はそれほどなかった。当時彼のどこが好きか、と他人から聞かれても、何も思いつかず、「私のことが好きなところかな」と答えていた。自分を愛する存在というのは愛おしいものだ。強いてほかに挙げるなら、時々自分では行かないような美味しい料理を出す店に連れて行ってくれたことくらいか。だがそれも私に対する愛情があったからこそだろう。つまり、私は「私のことを愛している彼」が好きだったのだ。

それゆえに、別れを切り出されたとき、溜息とともに愛情もどこかにあっさりと流れ出てしまった。彼の一番の魅力が消えうせたのだから、好きでいる理由が無くなってしまった。この言いようのない喪失感とぶつけようのない悲しみ。別れが悲しいのではなく、自分の愛情が一瞬で消えてしまったことについて、相手と過ごした時間が無意味であったように感じてしまい、悲しかった。

 

こうしてあっさりと、すんなりと、別れを終えてしまったのだが、この経験が諸行無常の感をより確固たる自分の価値観へと組み込んでしまった。付き合うということは、いずれ別れるということ。おそらく誰もが愛する人との別れに怯えている。関係を途切れさせないように、わざわざ共に過ごす時間を生活の中のタスクとして手帳に書き込みながら、大切に、大切に、その細い関係の糸を縒り合わせている。そうしてだんだんと太くして、諸行無常にも干渉されないほどの確実な太い綱をつくりあげようとしている。

 

現在付き合っている人は、私に惜しみなく愛情を注いでくれる人だ。一番の魅力はやはりそこ。この時点ではこの関係も危うく見える。自分でもそれはわかっている。そもそも私の人を好きになるきっかけが弱すぎる。わかっているが、それはあきらめた。

 

(本当は好きな男性のタイプだってある。顔が良くてスマートで背が高くて臨機応変にものごとに対応できる、それでいて人見知りで、私にだけ懐いてくれている。そういう男性なら最高だが、そうはいかない。顔が良くてスマートで背が高くて臨機応変にものごとに対応できる男性は、多くの場合たくさんの人から人気があって、誰とでも打ち解けて、飲み会にやたら呼ばれて、広く女性にも人気がある。そういうものだと思わなければやっていられない。そして、そういう誰からも人気のある存在に、私は魅力を感じなくなってしまう。)

 

さて、今後の課題は、相手ありきではない愛情の見出し方について考えることだ。先述のようなイケメンと付き合うことよりも、自分を愛してくれる人を愛した方が、相手も自分も幸せだし、何よりも楽だ。しかしそれでは、相手の愛情が無くなってしまったとき、人を愛する縁(よすが)を丸ごと失ってしまうことになる。

 

私は愛する人に執着したい。

 

相手の好きなところ、相手が私を愛していなくても自分のものであってほしいと願えるような好きなところを見つけていかなければならない。

 

ここで、その進捗をまとめる。

・やわらかいところ(太っている)

・怒らないところ

・わりとどんな環境でも機嫌がいいところ

・趣味が互いに理解し合えるところ(前回の彼は趣味が全く合わなかった。)

・賢いところ

・大人っぽい字を書くところ

・行動が早いところ

・目の前だけでなく、遠くを見据えられるところ

臨機応変に人を傷つけないための行動を取れるところ

・無駄な争いを避けるところ

・よく食べるところ

・朝のニュースを見ながら、怒ったり悲しんだりするところ

ひとまず思いつくものを書き連ねてみたが、意外とあった。人生の課題解決に向かって、ちゃんと進んでいるのかもしれない。

 

こんなお休みの日に、飲んで帰ってきた彼はベッドに突っ伏して、腹と尻を出して寝ている。そろそろ起こさなければ。